外科医はなぜ人を切ってもいいのか?

2020/4/25

 目の前の患者さんの命を救うため、重責をその肩に感じながらメスを握る外科医。その劇的な光景は度々医療ドラマにも描かれ、格好よく映ってきたものである。筆者自身は『ドクターコトー』以外ちゃんと医療ドラマを見たことはないのだが、それでもすぐ浮かぶ医師のイメージとして、そのような外科医の姿があるのは否めない。

 さて、ここで少し興ざめな疑問を提起してみようと思う。そのメスを握る格好良い外科医、彼は何故逮捕されないのだろうか? もちろん、手術をしたからという理由で医師が逮捕されたなどという話は聞いたことがないし、そうするべきだとも思わない。だが、行為だけ見れば彼がやっているのは立派な傷害罪にあたるはずである。一体どういう絡繰りが働いているのだろうか?

 この記事ではそんな当たり前と流しがちな絡繰りについて少し考えてみたいと思う。

法律における「業務」 ―とある牧師の話

 医師の話をしていたのがなぜ突然牧師の話になったのか思われるかもしれないが、ここではとりあえず読んでみて欲しい。なお、筆者はこの例を挙げるにあたり特定の団体や思想を肯定したり否定したりする意図は全くないということを断っておきたいと思う。万が一何か至らない記述があっても温かい気持ちでそっと流して頂けるとありがたい。

 では、さっそく書いていきたいと思う。これは実際に神戸で行われた裁判なのだが、この事件はとある教会の牧師が警察の捜査対象である2人の高校生を庇ったことが発端となった。この牧師は牧会活動の一環として彼らを匿い、この彼らは牧師の指導もあってか最終的に任意出頭した。だが、牧師は犯人蔵匿罪という罪に問われることになってしまったのである。

 そして裁判の結果、牧師は無罪となった。理由は牧師の行為が「正当業務行為」に当たるからというものであった。ここでの「正当業務行為」というのは牧師としてこの高校生二人を教え導いたことを指しているという理解でいいだろう。

 もちろん、この判例については様々な論点がある。法学の観点からも様々に面白い話があるとは思うのだが、ここでは二点にのみしぼっていきたいと思う。もし物足りないと思った方がいれば、「牧会活動事件」という検索ワードで調べてみて欲しい。様々な記事が出てくると思う。

 まず一点目だが、「業務」という言葉である。これはざっくり言えば、外科医が手術をしても逮捕されない理由になっている。医師としての「業務」の範疇においてなら人にメスを使っても傷害罪には問われないということである。当たり前だと思うかもしれないが、法律ではそのような形で規定されている。この判例に関しても、匿ったこと自体は犯人蔵匿罪かもしれない。だが、匿って指導したのは牧師としての「業務」の延長だったので問題ないということになったわけである。

 そして二点目は、ここで庇われたのがこのような高校生でなければどうだろうかという視点である。色々な考え方があるとは承知の上だが、敢えてばっさりとした言い方をさせて頂くと、この例において匿われた高校生は実は大したことはやっていない。現にこの高校生二人は任意出頭した後、牧師の働きかけもあって高校に復学し、大学にも進学している。だが、もし匿われたのが強力な爆弾を所持した逃走中の犯人で、匿われたせいで警察の爆弾処理が失敗してしまったとしたら? それで大量の犠牲者が出たとしたら? やはり事情は同じだろうか? 

 匿われるのが誰であれ、「業務」であるという事実は変わらないだろう。だが、だからといって匿う行為は肯定できるかと問えば、様々な意見が出るに違いない。そして、そのように議論が百出するであろうという想像は、「業務」が無条件に肯定できるものではないということを物語っている。

何となく哲学: ベンサムの功利主義の話

 というわけで問題提起だけして放置という訳にはいかないので、とりあえずは功利主義という思想の立場から少し考えてみようと思う。もちろんこれはあくまで一例である。色々ある中の一つ、とそれくらいの軽い気持ちで読んでみて欲しい。

 さて、ベンサムの功利主義だが、功利主義という単語は比較的知名度が高いように思える。

 ざっくりとこの思想を表す言葉が「最大多数の最大幸福」という言い回しなのだが、これは比較的知名度が高いかもしれない。「できるだけ多くの人の利益をできる限り増やすことが良い」というこの考え方は現代では当たり前のように思える。

 例えばベンサムが活躍したころのフランスを例にとって考えてみることにしよう(一応断っておくとベンサムはイギリスで活躍した人物である)。その頃のフランスは、ちょうどフランス革命という未曽有の大事件が起きていた。その背景の一つと言われているのが、不公平な政治制度である。圧倒的多数である平民階級から、圧倒的少数である王族や貴族が一方的に税を取っていた。そして彼らはその税で贅沢をし、さらに平民の意見を無視した政治を行っていたのである。

 だが、この政治制度はなぜ良くないのか。もちろん、功利主義の観点からもこれは良くないと言える。なぜなら圧倒的多数である平民が苦しんでいる現状を放置してほんの一部の人間だけがいい思いをしている状況だからである。これはどう考えても「最大多数の最大幸福」が実現されていない。

 さてここで、先ほどの二点目の話、つまりもし牧師に匿われた犯人が爆弾を持っていたらという話に戻ろう。これを功利主義で考えてみようと思う。

 まず例えば、犯人が大したことはやっていなくて匿うことで新たな犯罪が起きることもないとする。そうであれば功利主義は牧師の行為を肯定できるかもしれない。牧会活動のお陰で犯人が反省する機会を得て、それ以外の関係者の利益の増減はほとんどないように思える(牧師の労苦などはここでは置いておいて欲しい)。そうであれば匿うこと(=「業務」)は「最大多数の最大幸福」に繋がるのかもしれない。

 では、犯人が爆弾のような重大犯罪に関わっていたらどうなるだろうか? 牧会活動の結果として犯人が受け取る利益に変化はないが、もし匿われた結果新たな被害が発生して死者が出てしまったら? 明らかに社会全体の利益収支はマイナスに傾くように思える。そうであれば、匿うこと(=「業務」)は「最大多数の最大幸福」には繋がらない。功利主義の観点からは匿う行為は否定されるかもしれない。

 では、今度は医師の手術の例で考えてみる。手術(=「業務」)が成功すればそれで万歳だろうか? だが、もし手術(=「業務」)の結果救われた患者が誰かに害を為すと分かっていたとしたら? それではベンサムの功利主義は手術(=「業務」)を肯定しないかもしれない。筆者個人の意見としては手術が成功したら無条件で万歳だと思う。だが、ここで言っておきたいのは、功利主義という観点からすると今のような筆者の意見は当たり前ではないということである。功利主義という思想はしばしば、「人間的ではない」というような印象が抱かれることがある。それはこういう問題から来た印象と言えるだろう。

 もちろん功利主義はこれだけではなく、決して非人間的な思想ではない。例えばJ.S.ミルなどは人間性を重視したいという動機から少し毛色の異なる功利主義を唱えたし、そもそもベンサムの思想にしてもここで紹介したのはほんの一部に過ぎない。

何となく哲学: カントの義務論の話

 さて、先ほど筆者は「手術が成功したら無条件で万歳だと思う」と述べた。このような考え方を肯定できる哲学はあるだろうか? 

 ここでカントという哲学者を紹介したい。彼の思想は非常に難解で概略を掴むのも容易ではないのだが、後の哲学史の流れを変えてしまうような影響力があったというのは間違いない。よく功利主義との対立概念として挙げられるので、ここで述べてみたいと思う。

 カントの思想は人間の認識についての話から始まってしまうのだが、そこから説明すると長くなってしまうので、ここでは割愛して結論の部分、つまり道徳の話に絞りたいと思う。

 このカントが主張した道徳だが、それは「定言命法」と呼ばれるものである。彼は「~ならば、~せよ」という条件付き命令を「仮言命法」と読んだ。一方、ただ「~せよ」という条件付きではない命令を「定言命法」と呼び、こちらだけが道徳法則になりうると主張したのである。

 何故カントはこんなことを主張したのか。その背景の一つには動機が大事だという考え方がある。例えば、勉強の話で考えてみよう。やらないと親や先生に怒られるから勉強をしたという経験はないだろうか? これはカント的には動機が不純だということになる。そしてこのように動機が不純な行動を命令で表すとしたら「~ならば」という条件が付いた命令になる。カントはそう考えたのである。そして一方、もし私は自分を高めなければならないとただ純粋に思って勉強するとしたら(めちゃくちゃ意識高い…)、それこそが道徳的な行動(=「定言命法」に適う行動)だということになる。

 だが冷静に考えてみると、これはかなり厳しい条件である。いくら勉強しても誰かに褒められることはない。勉強して成績が伸びたからといって、自分の進学先に何か変化が生じる可能性もない。そんな状況でも勉強できれば、それは動機が純粋だというのである。正直筆者自身はそんな状況だったら、今までやったような勉強ができたとは思えない。少なくとも私の勉強の大半は「仮言命法」だったわけである。

 だが、例えば「命は助けなければならない」という命題はどうだろうか? もちろん「定言命法」というのはこれほど簡単なものではない。例えばこの命題であれば安楽死などの議論が問題となるだろう。他にも異論反論、枚挙に暇がないに違いない。

 だが、筆者としては、どこかに「手術が成功したら無条件で万歳だと思う」ような「定言命法」があってもいいのではないかと思ってしまう。そして、もしそんなものがあったなら医師の「業務」というのは無条件で肯定できる形で表せるかもしれない。カントの哲学はそんな希望を残してくれているのである。

 動機というのは人の内面にあるもので、誰にも覗くことはできない。だがそんな人の内面から厳密に道徳を語ろうとしたのがカントの魅力だと筆者は思う。結果を重視する功利主義とはその点で決定的に異なっている。もちろんそれ故の難しさもあるわけだが。

 ここでは本当に一部にざっくりと触れただけである。もしもっと詳しく知りたいと思った方がいれば、ぜひ調べてみて欲しい。初心者向けから難解なものまでカント関連のものはいくらでも出てくると思う。

ささやかなメッセージ

 という訳で、この記事は功利主義vs義務論という比較的よく出てくるテーマを扱ってみた。だが、特にカントの「定言命法」などはとても厳密で、よく引用されるわりに全く扱いやすくないという何とも武器にしがたい思想である。

 では、何故わざわざそんなテーマを扱ったのか。それは医師の「業務」の正しさというものについて考えてみたかったからである。そして功利主義のところでも触れたようにその正しさは意外と不安定である。

 日本の医療というのはここが平和で豊かな国であるという前提にかなり依存している。だが、今回のコロナ騒動で日本も「医療崩壊」などと呼ばれる状況がぐっと身近になった。実際の問題として今考えたようなことを考えなければならない時代もやってくるかもしれないとすら感じさせる事態である。そのような中で今のうちに医師の倫理というものを考え直してみるヒントになればと、書いてみた次第である。何か一つでも役立ってくれたら嬉しい。

参考文献

炭竃法律事務所「牧会活動事件」http://www.sumigama-law.jp/15003077148005(2020/04/15閲覧)

第一学習社編集部『テオーリア 最新倫理資料集 新版改定』(第一学習社、2013年)196,206-207頁。

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