人間の「生」と「死」に向き合うために。

2020/5/20

こんにちは。地方の某国立大に通うしがない医学生の小雪です。

突然ですが、この記事にたどり着いたあなたに質問です。

あなたは「あなた」としていつ生まれたと思いますか?

あなたは「あなた」としていつ死ぬと思いますか?

いきなり哲学っぽい質問を投げかけられて困惑された方も多いでしょう。でも、ブラウザバックは少々お待ちくださいね。生と死について思考を深めることが、あなたの医療者人生に何らかのプラスをもたらすことは間違いありませんから。

さて、人間の生と死についてはよく哲学、生物学、経済学、法学などでよく論題に上がる、規定の難しいテーマです。冒頭の質問で詰まった方も多いのではないかと思います。今回は人間の生と死について、肉体、精神、理性、社会、記憶の五つの面から掘り下げていき、皆さんが人間の生と死を客観的に捉える助けをできたらと考えています。

1、肉体的な生と死

現在の通説として、ホモ・サピエンス・サピエンス(いわゆる人間ですね)の肉体的な生命の始まりは両親となるオスとメスの交尾による受精の瞬間と言われており、現在の学習指導要領では小学校第五学年で初めに教わるものとされています。日本では一般的に人の誕生を受精の瞬間と定めているようですね。

そして人間の死は、心臓が拍動を停止し、呼吸が止まり、瞳孔が散大した瞬間(いわゆる死の三兆候)とされています。医師及び歯科医師が作成できる死亡診断書も死の三兆候を基準として作成するため、日本では一般的にこの瞬間を人間の死と定めているようです。ただ、この死に当てはまらない肉体の状態、例えば脳死などが存在します。

肉体的な生と死については科学的に明らかな部分が多く、以下の項よりかは理解に苦しむことの少ない分野でしょう。多くの人が肉体的な生と死を人の生と死ととらえているのも納得です。しかし筆者は、科学の発展によって人間の生と死が肉体的な状態だけでは説明できない時代が既に訪れているように感じます。

さて、続いては精神的な生と死についてです。

2、精神的な生と死

精神的な生については規定が難しく、よく議論の対象になります。脳神経に興味がある方は、ジュリオ・トノーニら著「意識はいつ生まれるのか」を一読されるとよいでしょう。ざっくりまとめると、脳の大脳皮質・視床において、初めて「豊富な情報を統合でき」た瞬間が精神的な生の始まりと言えるようです。ちなみに眠っているときでもわずかな環境の変化で起きることができますが、これは眠っているときでも脳は豊富な情報を統合でき、起きるという行動ができることを示します。眠っているときも精神は生きている、ということですね。

一方で精神の死も理解の難しい事象です。意識が不可逆的に復活しない状態になれば、精神的な死を迎えたと言えますが、その瞬間を定めることは困難を極めます。というのも、人が死を迎えて脳への血流が止まった後も記憶はあり、周囲の物事を正確に聞いて記憶できるとする研究結果が報告されているためです。サム・パーニア著「Erasing Death」にて、詳しく説明されていますので興味のある方はどうぞ。

このように、上記の肉体的な生死に比べ精神的な生死は境界が曖昧であり、捉えづらく敬遠されがちなようです。しかし、決して精神的な状態への配慮をおろそかにしてはなりません。例えば閉じ込め症候群(意識が保たれ開眼していて外界を認識できるが、完全四肢麻痺と球麻痺のため、手足の動きや発話での意思表出能が失われた状態) の患者の精神的な状態を考慮に入れずに、患者の傍で遺産相続や容体等の会話を医療者や親族が行えば、患者のQOLの低下は間違いないでしょう。代表的なアメリカほどではないにせよ近年医療訴訟等が増えている日本でも、患者の精神的な状態について注意および考慮が必要なことは明らかです。

続いては理性的な生と死についてです。

3、理性的な生と死

理性は、人間に本来的に備わっている知的能力の一つ(Wikipediaより)です。人間は社会に属して生活していますので、社会規範に則った行動を理性的に行わなければならず、たとえば何かを殺す、何かを奪う、何かを傷つけるといった行動は敬遠され、社会制裁の対象になることもあります。基本的に理性は自分の欲求を封じ込める際に働く能力であり、人間が生きていくために必要不可欠な要素でもあります。

理性が生まれるのはほぼ確実に出生後です。人間は誕生の後に親などと触れ合い、人間として社会で生きていくための判断能力を脳の成長とともに身に着けていきます。他人を殺さない、物を盗らない、傷つけない、悲しませないなど、あなたも、幼い頃に社会生活を送る上でのルールのようなものを何かしら感じたことがあるのではないでしょうか。

一方で、理性の死は肉体的、精神的な死の前に訪れます。例えばアルツハイマー型認知症やレビー小体型認知症により譫妄が発言し、介護者に暴力をふるい、排泄物を家屋や施設の壁に擦り付けるといった行動は、社会生活を送るうえでの理性が欠落していることを十分に示していると言えます。また、何らかの事故や病で前頭前野が破壊された場合、著しい人格の変化や理性の崩壊を呈するケース(フィニアス・P・ゲージの例など)があります。個人が理性的に真っ当な社会的判断ができなくなった場合、そうなる前に保有していた財産などが他人の影響を以前より大きく受けることも考えられます。これは人間が肉体的な死を迎えた時とそう大差ない現象のようにも見えます。なお、これらの症状が科学の進歩により克服された場合は、理性の死から生へと復活したと言っていいでしょう。失われたものを取り戻し埋め合わすことも、理性の復活においては可能であるように、筆者は感じます。

4、社会的な生と死

人間が社会に属する生物であるのは前項でもお話しした通りですが、その存在が公的文書で社会に認知されることが、社会で人が生きていく上で重要な位置を占めます。例えば戸籍や保険証などは公的サービスを受ける為に重要ですね。

肉体的な生と死の項で、一般的に人間は受精の瞬間に誕生すると規定しましたが、医学的、社会的に受精の瞬間をはっきり確認し公的文書に記載することは試験管ベビーでもない限り難しいでしょう。そこで、妊娠5週から6週目に産婦人科で胎児の心音が確認され妊娠が確定し、妊娠届出書が発行されたのを機に、社会的(行政的)に生を得たとするのが日本では一般的です。この時に役所で母子手帳を受け取ることもできます。そしてこの場合、妊娠中絶が認められる22週未満では、社会的に生を受けた人間を殺害したということになります。ちなみに、胎児の死を社会的に表す死産届の提出義務は12週以降であるため、6週以降12週未満の胎児は中絶もしくは堕胎したとしても産婦人科医会から保健所や厚生労働省に届け出がなされるだけで社会的な死が曖昧になります。そもそも、理性や精神の生が証明されていない有機物としての人間という生物を殺害することが、はたして社会的存在である人間を殺すことにつながるのか、犬や猫などの死とはどう違うのかなどは、人工妊娠中絶の賛否も含めて議論の余地がまだあるように感じます。

一方、出生以降の社会的な死は、死亡診断書および死亡届によって正式に証明されます。かなりあっさりしていますが、社会的な生に置いて述べたことへの対としてはこれ以上のものが私には書けません。

さて、社会的な生と死について述べてきましたが、社会的な生と死にはもう一つの分野があります。社会は人で構成される以上、人々に安心感を与え子孫を残しやすくするメリットがあるとともに、人と人とのつながりを断つことや関係性を破壊することが非常に難しいという、束縛的なデメリットも存在します。そこで生まれるのが記憶における生と死の概念です。

5、記憶的な生と死

今回取り扱うのは個人の自身に対する記憶ではなく、他人に対する記憶にあたります。自分自身の記憶における生と死に関しては、精神的な生と死に対する主観的な見え方とほぼ同じと取ってもらっていいでしょう。

さて、人間は妊娠が確定した瞬間から(もしくはそれ以前のことも)周囲の人々にその存在を記憶されます。そして、堕胎したとしても、中絶したとしても、生後間もなく亡くなったとしても、しばらくは人の記憶の中に留まり続けます。失われた命に深い悲しみを抱いたまま日々を過ごす方も多くいらっしゃることでしょう。もちろん、ある程度まで生きてから亡くなった場合も同様で、直接、間接関わらず、個人に関わったほぼすべての人にその存在が認識され記憶されます。そして、その記憶は時間とともに忘れ去られていき、全ての人の記憶から完全に消え去ったときに、個人として記憶の死を迎えたとすることができます。なお、伝承における認知とは別物であることに注意は必要です。たとえば、戦国時代の有名な武将である徳川家康は、教科書等で広く認知される存在ではありますが、とっくの昔に記憶としての死を迎えていることになります。

さて、記憶としての死を配慮しない場合、どのようなことが起こりえるでしょうか。例えば、遺族や関係者の前で個人の尊厳を傷つけるようなことをした場合、遺族や関係者の心を逆なでし、自身への印象を悪くするような事態が考えられます。人は肉体、精神、理性、社会的になくなったとしても、人々の中で一定期間生き続けるのです。他人の死であっても、社会に生きる人間である以上、お互いに配慮を忘れず生きていきたいものですね。

他にも、人には魂が存在するとしてスピリチュアルな生死が存在する説や、死が存在せず生きる世界が変わるだけとするネイティブアメリカンのドゥワミッシュ族の格言などがあります。そもそも生と死自体、人間が決めた概念に過ぎませんので、完全に統一した定義とするのは難しいものです。上記等、様々な視点から人の状態をとらえて医療に従事する必要があるように筆者は感じます。

さて、生と死について触れただけでかなり長くなってしまいましたが、普段漠然としていた生死のイメージがある程度まとまりやすくなったのではないでしょうか。

ここまで生と死について調べてみて、生は不可逆的ですが、死は人間の進歩によって可逆的になる可能性が秘められていることなど、生と死は似て非なるものであるように筆者は感じました。その為、可能性の広さの点から死がよりトラブル等に発展しやすく、対応の難しい問題であるようにも感じました。

人間の生と死は、様々な社会問題に発展します。私たちは生と死を扱う職に将来的に就くわけですから、生と死にまつわる様々なトラブルに向き合うことが要求される瞬間がきっとあなたにも訪れるでしょう。この記事が、患者の容体だけではなく、患者が生と死のどの段階にいるのか、患者が求めていることは何かを常に考えることのできる医療者を目指す学生の力になれば幸いです。

 

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